ピラミッド内部はとっても複雑な構造になって ファイアンスのタイル 南墓の側の壁には 南墓の竪坑 遺跡
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サッカラ (地図はこちら)
《ジェセル王のピラミッドコンプレックス》
●作った人:ジェセル王(ホルス名:ネチェリケト)
●年代:古王国(第3王朝)
●ピラミッドの本来の高さ:60m
●このピラミッドコンプレックス建築において、史上初めて石灰岩が大量に用いられた。
左の図は「The
Ancient Egypt Site」さんから
お借りしたものを、「ピラミッド大全」を参考に日本語に
直したものです。
(Original Source:Lehner, Complete
Pyramids)。
このように、ピラミッドコンプレックスは石の周壁(東西277m、南北545m)に囲まれています。
さらに、下の航空写真(Google Earthより)からも分かるように、石の周壁の外側が巨大な溝で囲まれています。
画面中央に階段ピラミッド、その周りをたてながの長方形で囲まれ(これが石の周壁です)、さらにその周りがうっすらとした四角(これが溝です)で囲まれているのが分かるでしょうか?
右に簡単な図を書いてみました。。
周壁には15の門がつけられており、そのうち14は偽物、1つのみが本物という構造をしています(上のピラミッド複合体の図における、入口と書かれた場所が本物の門(入口))。
入口
入口を入ると列柱廊があります。しかし、柱のみで天井を支えていたのではなく、柱と側壁の間は壁でつながっていたらしです(左下の写真)。
また、いたるところにイミテーションがあります。
例えば偽物のドアなどがあり、下中央の写真からは、ちょうつがいまで作られていたことが分かります。
さらに右下の写真からは天井に丸太のイミテーションをしていたことが分かります。
(なお、下3枚の写真は「The Ancient Egypt
Site」さんから写真をお借りしました)
列柱廊を通り抜けると、南の中庭に出ます。この中庭は180×100mの広さがあり、
中央のあたりにアルファベットの「B」の形に似た建物が建っていました。
このたてものはセド祭(王位更新祭)で王が走った際に使われたと考えられています。
(右の写真は、Bの形の建物跡(おそらく。。。)。)
ピラミッド建設は試行錯誤のもと、数回の設計変更が行われたことが分かっています。
設計変更の過程は以下のとおりです。
@当初は正方形のマスタバであった(M1)
Aその後四辺を約4mずつ均等に拡張(M2)
Bさらにその後、東側だけに8.5m拡張(M3)
C4段のピラミッドに改築(約40mの高さ)(P1)
D最終的に6段のピラミッドとした(約60mの高さ)(P2)
右の図は「The Ancient Egypt
Site」さんからお借りしたものに一部解説を加えたものです
(Original
Source:Lehner, Complete Pyramids)。
このように、通常は「マスタバを作っていたが、マスタバをいくつか重ねてピラミッドになった」と
いう説明がなされていますが、最初のマスタバ(M1)が正方形だったことに疑問がわいて来ます。
つまり通常マスタバは長方形で、この階段ピラミッドのマスタバ(M1)が初めての正方形の
マスタバなのです。しかも、M1の後に増築されたM2はM1よりも高さが低かったりします。
最初はマスタバをつくる予定だったのでしょうか??疑問です。。
ピラミッドをじっくり見ていると、石が内側に向けて積まれていることが分かります。
また、ピラミッドの増築過程も見ることができます。
是非是非、ピラミッドの周りをぐるぐるしてみてください!!!
います。そしてピラミッド内部もピラミッドと
同様にいくつかの段階を経て作られました。
まず、中心となるのが、中央に作られたシャフト
(竪坑)です。こちらは7m×7mの大きさに28mの
深さという規模で、下には玄室がありました。
玄室からは脚などの人骨が発見されています。
炭素年代測定法によれば、なんと、こちらの骨は
ネチェリケト王の時代よりも何世紀も後のもの
とのことです!
最初のピラミッドの建設プロセスにおいて、
北側から玄室への階段が作られました。
しかし、その後ピラミッド(マスタバ?)を拡大した
際に入口が建物でふさがれてしまったため、
より北側に新しい入口&階段を作ったそうです。
中央の竪坑の四方には通路が通じており、東側の通路の壁は葦のマットを模した青緑色のファイアンスのタイルがはられていたらしいです。また、東側の回廊からは偽扉が3枚発見され、走る国王が赤冠姿と白冠姿で1枚ずつ、もう一枚は白冠姿で神々と彫られているものでした。
M2の建設段階にて、東側のファサードに沿って深さ約30mの竪坑が11本掘られ、そこから西に向かって回廊が延びており、それらは地下でつながっています。この竪坑入口はM3の段階でピラミッドを拡張した際に覆われてしまっています。この中の4つの竪坑からはアラバスターの棺や子供や18歳くらいの女性の骨が発見されています。こちらの竪坑はファラオの近親者の墓と考えられてきましたが、炭素年代測定法によれば、こちらもネチェリケトよりも古い時代のものとのことです。また、他の竪坑からは4万点にもおよぶアラバスターや石灰岩などで作られた壷や碑文が発見され、それらにはネチェリケトよりも古い時代の王名が刻まれていたそうです。
これは何を意味するのでしょうか? ネチェリケトよりも昔に埋葬された王族の墓の上にピラミッドを建設したのか?、それともネチェリケトが埋葬しなおしたのか?? 謎です。。
上の図および右の写真は「The
Ancient Egypt Site」さんからお借りしたものです。
(上の図のOriginal Source:Lehner,
Complete Pyramids)。
考古学博物館で見ることが可能です
南の中庭の南側には「南墓」があります。南墓の竪坑の大きさは7×7m
で深さ28mと、ピラミッドの中央の竪坑と同じ大きさです。竪坑の下の
部分には1.6×1.6mの広さ、高さが1.3mの玄室があります。この広さ
だと、人間の埋葬用にしては小さすぎるのではないでしょうか???
ちなみにこの竪坑は階段ピラミッドの南北中心軸の延長線上に位置
しています。
玄室への階段は西側にあります(ピラミッドの玄室への階段は北側)。
内部の構造は階段ピラミッドの地下部分を忠実に模しており、
ピラミッドの地下部分よりも複雑ではありませんが、完成度合いおよび
保存状態でピラミッドの地下部分を上回ります。階段ピラミッドの
地下部分よりも完成度合いが高いことから、南墓こそが王の墓とする
研究者もいます(玄室は小さいですが。。。)。
この南墓の地下部分からも青緑色のファイアンスのタイル、3枚の
偽扉が発見されています(こちらの偽扉には白冠で走る王の姿1枚、
赤冠、白冠をかぶりリラックスする王の姿2枚)。
南墓の役割は不明です。なお、ネチェリケトの後継者であるセケムケト王の南墓(セケムケト王のピラミッドコンプレックスはネチェリケトのピラミッドコンプレックスと同様にイムホテプが設計したと言われています)からは2歳児くらいの男子の遺骸が発見されています(これはセケムケト王ではありません。セケムケト王は6年間王位についていますので。。)。
南墓は王の「カー」を祭るための場所であったとする説もあります。
現在、ピラミッド内部、および南墓の内部は公開されていませんので、私たちは南墓の竪坑を上からのぞきこむくらいしか出来ませんが、謎が多いところです。。
上の図および右の写真は「The
Ancient Egypt Site」さんからお借りしたものです。
(上の図のOriginal Source:Lehner,
Complete Pyramids)。
コブラの装飾があります
深いです〜
右の写真の手前側にあるのが『T神殿』です。
その奥にあるのが『セド祭複合体』です。
下の写真は「The
Ancient Egypt Site」 さんからお借りしたものです
セド祭複合体の特徴は左右にある礼拝堂の形です。
左上の写真はセド祭複合体の西側にある礼拝堂ですが、神の間(セク・ネチェル)タイプ(左)と大いなる家(ペル・ウェル)タイプが見られます。ペル・ウェルタイプは上エジプトの聖域を表しているそうです。
右上の写真はセド祭複合体の東側にある下エジプトに見られるタイプの礼拝堂(ペル・ヌ)です。
セド祭複合体の北西にはかつて像があったのでしょうか?足台が残っています(左の写真)。
T神殿の壁はジェド柱で飾られています。
なお、ネチェリケトのピラミッドコンプレックスの側にはマスタバも
あります。保存状態はさほど良くないですが、当時の生活風景を
見ることが出来て、なかなか楽しかったりします。。
このページを作成するにあたり、主として「The Ancient Egypt Site 」「ピラミッド大全」「図説ピラミッド大百科」「古代エジプト神殿大百科」
を参考とさせていただきました。